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2014年度のプロジェクトの概要

 

研究プロジェクト

東アジア古典演劇の「伝統」と「近代」
-「伝統」の相対化と「文化」の動態把握の試み-

研究代表者 毛利 三彌  成城大学名誉教授
研究目的要旨

日本、中国、韓国の古典演劇(能、狂言、歌舞伎、人形浄瑠璃、京劇、崑劇、川劇、儺劇、タルチュム、パンソリ)が、科学技術の進歩とともに到来した近代という時代に、どのように変質したかを、「演劇という芸術の近代化」という視点や、近代における東アジアの民俗芸能の変容という視点をもまじえて検証し、「伝統」というものの実態を把握し、「文化」の動態把握のモデルを提示する。

 

研究目的

①背景:
日本でいえば、能楽、歌舞伎、文楽の伝統演劇と呼ばれる演劇は、その「伝統」という言葉によって、一般的に「不変」というイメージが強い。しかし、俳優という「人」によって担われる演劇が100年、200年という時間の経過のなかで「不変」であることは常識的にも考えがたく、実際にはかなり大きな変容をとげているのだが、「伝統」という言葉の呪力からであろう、一般的には「不変」と思われているのが実情である。もちろん、伝統演劇の研究においては、その変容は当然認識されているが、変容の実態となると、研究はほとんどなされていないのが現状である。本プロジェクトはそうした現状に着目して、近代における変容の実態を伝統演劇各分野において明らかにし、それによって、従来の伝統演劇研究には欠落していた面を補い、トータルな伝統演劇研究の進展に資したと考えている。
②必要性:
本プロジェクトは近代における伝統演劇の変容の実態究明を目的としているが、対象とする時代を近代としたのは、近代が科学技術が飛躍的に発展した時代であり、それだけに伝統的な演劇がこうむった影響が大きかったからである。従って、近代における伝統演劇の変容についての研究は、「近代」という、われわれにもっとも近く、また、歴史的にも特異な時代たる「近代」の特質を明らかにすることにもなるわけである。このような視点からの「近代」研究はこれまでにはなかったものであり、その点で、本プロジェクトによって、新しい「近代」研究の地平が開かれることが期待される。
③方針:
本プロジェクトは、以下のような目標に沿って推進される。
(1)伝統演劇における「伝統」という概念の解明。
日本、中国、韓国朝鮮の伝統演劇における「伝統」の概念とはどのようなものか、あるいは、そこにはどのような違いがあるかについての解明。これには、当然、西洋演劇における「伝統」概念との対比が求められる。
(2)東アジアにおける演劇の「近代化」の実態の解明。
「近代」は、もともと西洋における時代概念であるから、非西洋における「近代」は多くの場合、「近代化」のあり方となるが、その過程は国によって異なり、 同一の国でも演劇のジャンルによって、「近代化」の様相も異なる。その実態と、そのような違いが生じる理由(背景)の解明。
(3)世界の演劇思潮と東アジア演劇との関係についての解明。
「モダン」と「ポストモダン」、あるいは「近代性」と「ポスト近代性」については芸術諸分野において種々の議論がなされているが、ポストモダンの時代になって、演劇の分野では、アジアの伝統演劇への関心が高まっている。この潮流は演劇史的にどのようにとらえるべきなのか。
(4)近代の伝統演劇と近代の科学・技術の関係についての研究。
近代の科学と技術は、近代の文化にも多大の影響を与えてきた。伝統演劇あるいは演劇一般の近代化は、その近代の科学・技術、あるいは近代経済にどのような影響をうけてきたのか。

キーワード 伝統、近代、演劇、東アジア
参加研究者リスト
18名
毛利 三彌 成城大学名誉教授
天野 文雄 大阪大学名誉教授
岩井 眞実 福岡女学院大学人文学部
内山 美樹子 早稲田大学名誉教授
恵阪  悟 帝塚山大学人文学部
大西 秀紀 京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター
小田中 章浩 大阪市立大学大学院文学研究科
神山  彰 明治大学文学部
佐藤 かつら 青山学院大学文学部
重田 みち 早稲田大学演劇博物館
京都造形芸術大学
田草川 みずき 日本学術振興会
中尾  薫 大阪大学大学院文学研究科
野村 伸一 慶応義塾大学文学部
平林 宣和 早稲田大学政治経済学術院
正木 喜勝 大阪大学大学院文学研究科
山下 一夫 慶応義塾大学理工学部
山路 興造 世界人権問題研究センター
横山 太郎 跡見女学園大学文学部
2013年度
研究活動予定
① 研究会開催予定:
第1回研究会 2014年8月ころ (於高等研)15名程度
第2回研究会 2015年2月ころ (於高等研15名程度
② 話題提供予定者:
  国内招聘2名程度。
研究活動実績 2012年度:

2012年8月20-21日の2日間にわたる研究会を、高等研会議室にて開催した。やむを得ぬ理由で欠席したものもいたが、合計13名が、それぞれの専門分野における近代化の問題に関する研究の現状及び問題点について、報告発表を行った。各発表の後の、全員による討論も活発に行われ、伝統と近代(化)のさまざまの問題点が浮き彫りにされた。
以下に、2日間にわたる研究会参加者の発表、討論を通して浮かび上がってきた、われわれのプロジェクトにとって重要かつ興味深い問題と思われることについて、研究代表者としての総括をしておく。
(1)芸能と演劇

日本演劇について述べるとき、しばしば芸能の概念とのかかわりが問題にされる。両概念は重なるのか、重なるとすれば、いずれが広い概念か、等々。その相互関係は、大きく三つの見方に分けられるだろう。

① 芸能は演劇を包含する、すなわち芸能は演劇より広い概念であるという見方。

研究会でも提出されていたが、これは、今日かなり一般的な考え方だろう。法政大学出版局から出た藝能史研究会による『日本芸能史』はこの見方による通史である。序章で、林屋辰三郎は、呪能と芸能を区別し、広義の芸術史を芸術史(美術史)と芸能史に分ける。その芸能史の中で、演劇史、音楽史、舞踊史、茶道史、花道史等の区分がなされている。

②演劇は芸能を包含する、すなわち演劇は芸能より広い概念であるという見方。

    従来、また現在でも、「日本演劇史」と称するものの多くに見られるもので、そこでは、たとえば、演劇の伝説的起源を記紀に記されたアメノウズメの楽に求め、その後の神楽や渡来芸能の記述などが「古代演劇」の章の内容をなす。あるいは、①の林屋の分類法に倣えば、演劇史を、芸能史とドラマ上演史に分け、芸能史にドラマの要素のない、あるいは希薄なものを含めることもできるだろう。

③演劇と芸能は、部分的に重なるところがあるが、両者は別のジャンルであるとする見方。

    これは、演劇、芸能、ダンス、音楽、スポーツなど、身体運動を基本要素とする(今の言葉で、パフォーマンス中心の)表現ジャンルの相互関係と同じである。
    芸能としての考察対象は、①の場合は②の場合より広くなる傾向を持つ。たとえば『日本芸能史』では、通常の演劇史にはまず含まれないと思われる茶の湯や生け花も芸能として記述対象とされている。だが、①②いずれの見方も、多くの場合、両概念の規定を明確にしていないために、いわゆる演劇と芸能は連続的に記述されており、両者の相違は必ずしも明白にはされていない。これに対し③では、明らかに演劇とされない大道芸や物売り芸のようなものも、芸能に含むことができるし、逆に、教育劇は演劇とはされても芸能とは呼びにくい。だが、個々の例では、演劇と芸能のいずれに入れればよいか不明となるものもあるだろう。
    これは、一つには、「演劇」の語が、基本的に近代の新造語であるために、今でも曖昧な使われ方をしていることによる。この熟語を「エンゲキ」と読むようになったのがいつにせよ、少なくとも私の世代では、「今晩しばいを見に行く」とは言っても、「今晩えんげきを見に行く」という言い方は、普通しない。だが、「芸能」の語もまた、古代から使われているとはいえ、歌舞音曲に限定した「芸能」の語が文献上に現れるのは、12世紀からのようであり(『日本芸能史』序論:守屋毅)、また、現在の「芸能」のもつニュアンスは、近年に出来上がったものだろう。民俗芸能、古典芸能、放浪芸(能)、大道芸(能)などの言い方は、言うまでもなく近代のものであるが、その境界線は必ずしも明確に引くことができない。学術的に演劇と芸能をどう規定するか、研究者の立場で、ある程度はっきりさせる必要があるように思う。
    実は、演劇theatreの概念は、西洋でも必ずしも古くから明白になっていたわけではなく、現在のtheatreの通念が出来上がったのはせいぜい18世紀以降のことのようである。また、今日は、演劇のパフォーマンスの様相に研究の比重をおく傾向が強いために、演劇研究(theatre studies)よりパフォーマンス研究(performance studies)を中心とすべきだという議論も、欧米では少なからずある。パフォーマンス研究は、まさにわれわれの芸能研究(あるいは文化研究といってもよいが)に似たところがある。(このときのperformanceは、従来のperforming artsとは違った概念として使われているから、「芸能」を英語でperforming artsと訳すのは、適切ではないだろう。)欧米のいささか混沌とした演劇研究の状況は、理論的な構造研究を重視しなくなったポストモダンの傾向と無関係ではないだろうが、日本の芸能あるいは芸能史研究が、寄与する余地は大いにあるのではないかと思われる。たとえば、物売り芸の芸能性(演劇性)が明らかにされるのであれば、ヨーロッパで今や古典的事例ともなっている、観衆の前で、氷の上に裸で寝て、変色していく体を見ている観衆が、どこまで耐えられるか(途中で数人が止めに入った)というようなパフォーマンスの非/芸能性(演劇性)も、明らかにできるかもしれない。
    (2)演劇史的事実が不明である場合:人形操りと浄瑠璃語りと三味線のむすびつき

懇談会の席上で、内山氏と山路氏の間で、人形浄瑠璃の成立に関して、まず浄瑠璃語りに三味線が加わったのちに人形と結びついたのか、浄瑠璃と人形が結びついたあとに、三味線が加わったのか、ということで、ささやかな議論があった。それは、水掛け論になりかねないし、いずれにしても最初期の事象であって、慶長19年には三者の結合は明らかであるとすれば、その後の人形浄瑠璃を考える上で、いわゆる三業と呼ばれるものがどのような順序で結合したかということは、それほど重大な問題ではないとも考えられよう。だが、研究会のテーマからは離れるが、実際に、事実関係を決める確実な史料が残っていない場合、演劇史的考察をどのように進め、またそこにどのような意味を認めるか、という問題は、近代という比較的近い時代の事象についても、しばしば生じることであり、われわれにとって重要な意味をもつ。特に私は、門外漢ながら、文楽の構造から、演劇の基本構造が解明できるのではないかと考えているので(拙著『演劇の詩学』)、内山、山路両氏の〈論争〉は、文楽ひいては演劇の基本性格を左右する非常に興味深い問題として聞いた。
言うまでもなく、現在、義太夫語りというと三味線演奏を含めており、独立した演奏会をもつこともあるが、人形操りだけで公演をすることはまずない。これは、語りものが演劇となる契機がどこにあるかを考える上で、大変示唆的である。もちろん、先の問題は、人形浄瑠璃が義太夫に統一される以前のことであり、また、語りものには古くから、何らかのリズムをとる音の伴奏が必要であったとすれば、それが三味線となることで、語り物に変容をきたしたかという問題も生じる。もし、三味線が本質的なものではないとすれば、浄瑠璃語りと人形とを結びつけて演劇的なものを成立させた契機は何か、という問いが出てくるだろう。
西洋の文芸では、抒情詩、叙事詩、劇詩は、ギリシア以来明白に区別されており、劇中で語りが出てくることはあっても、劇の中に第三者のことばとして語り、説明が入るものは、少なくともドラマのジャンルとして認められることはない。劇詩は、三つのジャンルの最後に成立したと考えられているから、なんとなく、叙事詩的要素の残滓は、劇成立の前段階であると見られるきらいがある。それはまた、新しい事象の成立には何らかの原因があり、その結果として出てきたという西洋の合理主義思考によることでもあるだろう。だが、それがいつも正しいとはかぎらない。
演劇史において、確実な史料が欠けているときに、歴史的過程を合理主義的に類推することの誤りが典型的な形で明らかになった例は、ギリシア悲劇の成立過程に関する見解であった。コロスの合唱団から俳優が独立して、舞唱形式からせりふ形式が派生したという思い込みから、現存する最古の悲劇は、五〇人のコロスが主役の、アイスキュロスの『救いを求める女たち』であると長く思われていた。だが、『ペルシャの人々』が最も古いとせざるを得ない資料が発見されて、古典学者のギリシア悲劇観は、ほとんど180度転回したのであった。
実は、今日の西洋の研究者の間では、ポストモダンの風潮の中で、合理主義的な説明をはなから拒否する傾向がある。だが、それに代わる理論的方法は、明確には見出されていない。私などは、どうしても、理論とは合理的説明を行うことであり、それによって、個々の事象の間の関係を明白にすることだと考えてしまうが、ギリシア悲劇の例のように、日本あるいは東アジアの演劇を考えるときには、まったく異なる視点が要請されることは大いにあるだろうと思う。
(3)比較の視点          
「近代」を問題にする以上、西洋との比較は必然的に浮上してくる。このとき、まずは、諸々の用語の概念規定が問題になる。「演劇」についてはすでに言及したが、「伝統」の語もまた、その西洋語、たとえば英語のtraditionの使い方は、われわれの「伝統」とは必ずしも同じではない。いちばんの違いは、演劇の場合も伝統の場合も、英語では、名詞と形容詞とが同じ意味合いではなく使われることにある。traditionalが必ずしもいい意味ではないのと同じく、theatricalも、しばしば批難の意で用いられる。それどころか、theatricalであるものとして、theatre自体が批難されることもあった。しかし、これは日本語でもある程度言えることだろう。「芝居じみている」というのはいい意味ではないし、「やつは芝居をしている」といえば、嘘をついている、虚飾を張っている、という意味である。江戸期、芝居は悪所であり、格が上の能は芝居と呼ばれなかった。おそらく「芝居」からこの意味を払拭するために、明治期に「演劇」の語が使われ出したのではないかとも思われるが、いまもって「エンゲキ」が定着していないことは、すでに述べた通りである。
このようなことは、他の東アジアの国ではどうなのであろうか。日本の「演劇」や「伝統」は、他の国では別の漢字を使うということであったが、ほかにも、同様の言葉は多々あるだろう。それらは、漢字が違うだけで、同一概念とみてよいのか。ある漢語が、西洋語の翻訳なのか、他の東アジアからの移入なのか、明白ではない場合もある。また、それが、もとは西洋の翻訳語であったのか、「芸能」のような古くから伝わった語であるのかによっても、違いは生じるかもしれない。
ところが、先に述べた西洋における「パフォーマンス」の語を、われわれもそのまま使うというようなことになると、比較の視点自体に混乱を招くことになる。今日の日本語で、カナ書きの「パフォーマンス」は、演劇とほとんど無関係な言葉として使われることも多い。日本の芸術研究には、往々にして方法論が欠如しているといわれるが、それは、多くの用語が、西洋語の翻訳か、あるいは原語のカナ読みであって、意味がわかったようでわからないままに使われていることにもよるのではないか。だが、おそらく近代の学術研究は、ほとんどの場合、西洋の方法論にどこか依存して成立している。それは日本の古典文芸や民俗文化の研究の場合にも、言えることのように思う。先に、芸能あるいは芸能史研究が、西洋のパフォーマンス研究に寄与できるかもしれないと述べたのも、両者の研究に、何らかの共通性のあることを前提としている。
比較が意味をもつのは、断るまでもなく、比較対象に相違点と共通点があるからである。日本の小芝居についての報告があったが、江戸期の大芝居と小芝居の関係は、パリ、ロンドンの官許劇場ともぐりの劇場、または縁日芝居あるいは市の演劇との関係によく似ている。ほかにも、近世の日本演劇とヨーロッパ演劇との間には、相互影響があったとは思われないにもかかわらず、新しい現象が時期的にかなり併行して現れている。近世演劇の成立期がほとんど同じであること、世話物(市民劇)の出現が18世紀初頭であること、18世紀末のゴシック演劇と南北等の歌舞伎の傾向の類似などなど。同様のことが近代において生じるときは、そこに直接の影響関係をみたくなるが、必ずしもそうとはかぎらないこともあるのではないか。これらは、比較演劇的に興味のある問題だが、単に似ている似ていないということだけでなく、なぜこのような併行現象が、西の果てと東の果てで生じたのかを、やはり問うべきだろう。それには、社会状況、政治状況等の考察も必要になる。
比較はまた、時代を異にした場合の同一概念の間でも問題なる。たとえば、日本の現代演劇研究者の中に、リアリズムは社会主義リアリズムのことを指すと理解しているものが多くいて、世代間で議論がかみ合わないことがあった。この語は長く写実主義と訳され、歌舞伎、新派、新劇それぞれの舞台で写実主義が云々されていたが、それぞれの写実の性質が異なることは言うまでもない。これは西洋でも同じであり、18世紀後半には、明らかに今日いうリアリズムの傾向が出てきたというものの、18世紀の舞台が、20世紀のリアリズムの様相から遠く離れたものであったことは疑う余地がない。過去の舞台の録音、録画記録を、今のわれわれが受容するときに注意が必要であるという重要な指摘がなされていたが、過去の言説を、今日解釈するときも、その言葉の意味あるいは使われ方の変化には、大いに注意する必要があるだろう。
(4)通訳(通釈)と翻訳

 最後の天野氏の報告で、謡曲の通釈(通訳)の必要性を述べた論が紹介されていた。われわれのテーマに直接かかわらないかもしれないが、これはいわゆる翻訳学の視点からみて、面白い問題であると思う。謡曲の通釈あるいは通訳が必要になるのは、言うまでもなく、そのテキストが今日の一般的な日本語からかけ離れていて、専門家以外の人には、言葉や文章の意味がすぐには通じないからであろう。このような場合、たとえば外国語の文学テキストは、通常、一般人が理解し享受するために、「翻訳」がなされる。したがって、翻訳テキストは、あくまで原テキストの代替であって、本来は原テキストを受容するのが望ましいが、やむを得ず翻訳テキストに頼っているという了解が背後にある。それゆえ、翻訳テキストは、できるかぎり確実に原テキストの趣を伝えるものが優れているとされ、その方法が翻訳家の間では議論される。欧米の外国語翻訳は、よほど専門的な著書でないかぎり、翻訳家の仕事であって研究者の仕事ではない。
だが、近年の翻訳学(translation studies)は、記号学(記号論)から派生してきたといってよいが、翻訳の概念を、言語テキストから、文化一般の移入、影響関係にまで広げて考えるようになっている。そこでは、これまた近年の西洋中心主義への反動もあって、翻訳テキストが原テキストに劣ると見る従来の傾向は批判され、翻訳の方法についての考え方も変わってきた。天野氏の謡曲通訳の重要視は、翻訳を非専門家のための便法と考えていた私には、はじめいささか戸惑いを感じさせるものであったが、ここでの通訳(通釈)はいわゆる翻訳ではなく、新たな読みの提示ということだろう。部分訳ではなく通訳を主張するのは、作品全体を見通す理解が重要だとするからで、そこでは、通訳は原典に並ぶ位置を占めると言えるのかもしれない。だが、もし、テキスト読解において、全体の理解を通訳という形で示す必要があるなら、謡曲の上演では、観客に、テキストの通訳に相当するものを示す必要はないのであろうか。あるとすれば、それは、どのようなものとなるか。
現代のギリシアでは、古代ギリシア演劇を現代ギリシア語に翻訳して上演するのが一般的だという。やや意味合いは異なるが、ノルウェーでは、共通国語が2つ認められているので、一方の言語で書かれているイプセンを、他方の言語でも、それに直して上演する。日本では、古典演劇を現代語に直して上演することは、通常はない。これは、英国でも同じで、シェイクスピアの英語は現代人にはすんなりとは理解できないにもかかわらず、現代語に直して上演することはまずしない。(もちろん、語の発音は、昔どおりではなく、現代化されている。)
しかしながら、翻案の形での古典の現代化上演はよく行われる。そもそも翻訳という概念は、西洋でも18世紀まで成立していなかった。他国の作品を自国語に直すことと創作の区別は意識されず、原作に忠実ということの必要性も考えられていなかった。自国の作品でも、再演は書き直しによる。それは、近代以前は、洋の東西を問わない。いや、今でも、周知のように、近松は、文楽でも歌舞伎でも、書き直されたものが上演されている。いかに研究者が異議を唱えようと、実践者たちは、書き直し版が現代人にとってはより好ましいと考えているようである。翻案は翻訳とは異なる原理をもつ。それは翻案学(adaptation studies)として独自に考察されてもいる。
これらのことは、これまであまり問題にされたことがなかったように思うが、比較演劇学の面白い問題であるだろう。

研究会開催実績:
 第1回 2012年8月20日~21日 (於:高等研)
 第2回 2013年2月22日~23日 (於:高等研)
話題提供者:2名
天野 文雄 国際高等研究所副所長
髙木 浩志 元NHKプロデューサー
その他の参加者:7名
天野 文雄 国際高等研究所副所長
加賀谷 真子 同志社大学客員教授/ウィリアムズ大学アジア学部教授
鈴木 雅恵 京都産業大学外国語学部教授
戸田 健太郎 大阪大学大学院生
長田 あかね 京都造形芸術大学講師
藤岡 道子 聖母女学院大学教授
Cody Poulton Pacific and Asian Studies, University of Victoria, Professor

2013年度:

2013年度に計画していた2回の研究会のうち、第1回研究会は、以下のスケジュールで行われた。なお、第2回研究会は、2014年2月27日28日に開催予定である。
日 時:2013年   8月 27日(火) 13:30~17:30
               8月 28日(水)  9:00~17:30
プログラム
 8月 27日(火)
  13:30~14:30       〔報告①  〕山路 興造(京都女子大学文学部非常勤講師)
                                    「民俗芸能における近代-石見神楽を事例として-」
  14:45~15:45       〔報告②〕大西 秀紀(京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター
                                    非常勤講師)
                                    「音声資料からたどる義太夫節演奏の近代」
  16:00~17:30       【ゲスト講演】木村 理子
                                    東京大学教養学部教養学科地域文化研究科非常勤講師
                                    「チベット仏教圏における国家と「伝統文化」」
                                           ――仮面舞儀礼チャムの形成と変容を通して
  18:00                      懇親会 会場:高等研
8月 28日(水)
    9:00~10:00       〔報告③〕中尾 薫(大阪大学大学院文学研究科専任講師)         
                                    「近代能楽の一事象・続考」
  10:15~11:15       〔報告④〕山下 一夫(慶応義塾大学理工学部准教授)
                                    「中国影絵人形劇の「近代化」とセルゲイ・オブラスツォーフ」
  11:30~12:30       〔報告⑤〕平林 宣和(早稲田大学政治経済学術院准教授)
                                    「古装新戯の誕生-民国初期における中国伝統演劇近代化の一側面」
  12:30~13:30       昼食
  13:30~16:45       【シンポジウム】
                                    毛利 三彌著「<劇の場>をめぐって-space とfield」
                                    コメンテーター:小田中 章浩             
                                    神山 彰著『近代演劇の水脈』第14章「明治東京の観劇空間」をめぐって
                                    コメンテーター:岩井 眞実                
                                    天野 文雄著『現代能楽講義』第7講「能舞台の変遷」をめぐって
                                    コメンテーター:横山 太郎
  17:00~17:30       総括        
      
今年度は、研究発表の仕方に独自の工夫をした。すなわち、個別発表の他に、プロジェクトの課題に沿っ特別なテーマのもとに、それに関する重要な文献、論文を、あらかじめ全員が読み、それぞれコメンテーターに批判的報告をしてもらった上で、全員で質疑し、討論するシンポジウムを行ったことである。
今回選んだテーマは、〈劇場〉で、まず一般的な〈劇の場〉について理論的考察をした論文をとりあげ、そのあと、能、歌舞伎の上演の場の、近代における外的、内的変化を扱った著書を検討した。
個別発表とともに、非常に活発な討論が行われ、各研究員の研究に大いに寄与するところがあったと思われる。
以下に、研究会後、全員に送付した、研究代表者による全体の総括文を掲載し、活動実績の報告とする。
(1)伝統文化の変化の要因

 今回の討論で明らかになったことの一つは、芸能や演劇が変化する要因として、大きく三つが考えられるということである。一つは、その芸態自体の要請、いわば美学的意思による変化。二つ目は、その芸能、演劇を享受する社会の趣向、感性に合わせた変化。もう一つは、当事者に直接かかわらない支配権力の強制による変化である。これらを、かつて流行ったコミュニケ―ション理論の用語をかりて言えば、次のように区別できるだろう。

(1)送り手による変化――美学的

(2)受け手に対する変化――社会的

(3)第三者からの変化――政治的

言うまでもなく、これらは孤立してではなく、互いに重りあって生じるが、それぞれの比重、度合の違いを見極めるのは、そう容易ではない。たとえば、山路氏の述べたように、石見神楽の明治以降の変化は、政府による神職関与禁止という政治的圧力によるもので、これで消失するのが一般的であるところを、石見地方では、村の若ものに神職に代わる参与の意思があったことで、今日の石見神楽が存続した。当然、それなりの芸態の変化をきたしたに違いないが、そこでは、この神楽を存続させようとする村自体のいわば社会的深層心理ともいうべきものも働いていただろう。その比重の差を量る術はあるであろうか。その判断には、どうしても、研究者の主観的、印象的なものが入ってくる。言い換えれば、その変化の歴史的事実は、今日のわれわれの感性、ひいては今日の社会の要請によって成り立つ。つまり、二重のスクリーンを通してしか、その変化の理由を考えることができないということである。
今日のわれわれの感性による判断の問題は、大西氏の紹介した明治、大正、昭和の浄瑠璃語りの名人たちの録音を聞いたときにも、浮上したことである。その語りかたが、通俗的な感じから次第に高尚なものへと変化しているのは、たしかに言われたように、山城少掾の個人的な感性と力によるところが大きく、それはまた当時の知識層の支持の下に生じたことだろう。しかし、これも大西氏の指摘したように、われわれの耳がすでに、山城少掾によってその美的尺度の方向付けをされているということがある。私には、明治の録音からは、少なからず浪曲のような印象を受けたが、この印象自体が近代のものであるということと同時に、そこにこそ、明治の人形浄瑠璃の圧倒的な人気の源があったのかもしれず、山城少掾を高く評価する風潮が高まれば高まるほど、文楽の大衆的人気は下降したとも言えるかもしれない。もともと歌舞伎や人形浄瑠璃は、大衆的、通俗的なものであった。その、かつての感性のありどころを、それと無縁に近いわれわれが、わずかな録音やフィルムから推しはかることは、考古学者が、僅かな骨の出土から、見たこともない恐竜の全体像を復元するのと同じような具合に行くのかどうか。
録音や映像が出る以前のことになれば、もちろんすべて文書記録に頼るしかない。たとえば、昨年第一回研究会の「総括」で、内山氏と山路氏による人形浄瑠璃における三業合体の仕方、時期についての議論に言及して、私は、慶長十九年に三者が合体していたという記録が残るだけだとすれば、それ以前に三業のいずれがいずれと先に結びついたかは、所詮推測の域をでないだろう、と書いた。その後、内山氏から、慶長十九年の記録で明らかなのは、浄瑠璃と人形の結合のみで、三味線が加わっている画証の初出は一六三〇年頃まで待たねばならないと指摘された。そうであればなおのこと、「浄瑠璃」という名称の一般化の問題とともに、いずれの説も決定的な記録文書によって確証されるものではなく、ここで事実関係を云々しているのも、われわれの感性によることでしかないわけである。われわれの感性もまた、明らかに他からの作用(さまざまのかぎられた資料、また権威によるその解釈)に左右される。屋内に入った能楽堂でも、能舞台が屋根に覆われている理由について、天野氏と山路氏で必ずしも見解の一致は見られなかったが、そもそも歴史とはそういうものであるとすれば、すべては水掛け論ということになる。時代によって、歴史観によって、異なる歴史が書かれる所以だが、伝統と近代という比較的近い時期の問題でさえ、この歴史の制約をまぬがれるものではないということであろうか。だが、水掛け論は、評論には許されても、研究では許容されない。とすれば、せめて論争の中から何かをくみ取ることによって、単なる水掛け論の域を出ようとするしかないのではあるまいか。
(2)感性と論理

近代的論理では説明できない過去の事例や行為や要素に、宗教的儀式の意味をみて納得する風潮は、いつの頃から一般的になったのであろうか。おそらく、十九世紀半ば以降、われわれの発想を圧倒的に支配していたいわゆる進化論的論理が、二十世紀後半にくずれてきたこと、民俗学、人類学が社会的認知を獲得してきたことなどと時期を同じくしているのだろう。特に伝統芸能、演劇の諸々の要素に儀礼的意味をみてとることは、いまや研究者の間で自明のことのように行われている。考古学的出土品でも、謎めいていることは宗教的意味をもつとして納得されるのが一般的である。それがわれわれに、抗しがたい説得性をもつのは、かつて進化論的論理がほとんどすべての分野で疑問を感じさせなかったように、二十世紀後半になると、宗教的感性論が圧倒的な支配力を発揮してきたからに違いない。それは、そもそも社会がそういう感性を失ってきたことを証する。欧米で特にその風潮が強いのは、非西欧の文化伝統に宗教的感性を見ることで、彼らの感性の希薄さを補っているのではないかと勘繰りたくもなる。言うまでもなく、論理は普遍的だが、感性は個的なものである。欧米研究者が、日本の伝統芸能に宗教的、儀礼的な意味を見て称揚するとき、その見解が、往々にしてわれわれに違和感をもたせることがあるのは、彼らとわれわれの感性の違いに由来するものであろう。状況の違いもある。岩波新書『仏像の顔』は、フェノロサが奈良の寺社の仏像調査で、法隆寺の百済観音を覆う白衣をとってはじめてその実像を目にしたとき、エジプト彫刻に似ている印象をもったこと、だが、和辻哲郎は、異議を唱えて、エジプトの像は人間的だが、これは瞑想的、非人間的だと述べたと記している。著者は、ここに日本人と西洋人の感性の違いをみているが、同時に、はじめて思いがけなく百済観音をみたフェノロサと、幾多の評判を聞いた後で実像を見たに違いない和辻との状況の違いもまた、大きく作用したはずである。おそらく、同様のことが、われわれの外国の芸能・演劇の研究にも生じているだろうし、過去の歴史事例の研究の場合にも見られるに違いない。
また、山下氏の発表した中国の伝統的な人形劇に、ロシアの近代的な人形劇の技術が注入されたとき、中国人が感じた違和感と、それによる演劇的感性の変化がどれほど中国化してきたか、という問題も、日本の演劇近代化の問題につながる。伝統演劇の中でさえ、ほとんど無自覚に近代的論理に従った表現に変化していることは多々ある。平林氏の報告にあるように、京劇の場合は、周囲の近代化への反動として出てきた「古装新戯」が、同時に近代化への歩みでもあったことは、その後のあり方も含めて、九代目團十郎以後の歌舞伎に類似するところもあると思われる。ただ、女形としての梅蘭芳の世界的評価にもかかわらず、その後の京劇では女優が支配的になった。これはもちろん批評家をはじめ観客一般の感性的支持によるのであろう。日本の新派の場合も、戦後まで女形が重要視されたとはいえ、女優にとって代わられる趨勢は止められなかった。これが劇団の事情によるのか、俳優の感性の変化によるのか(新派女形を志す俳優が出てこない)、新派観客の好みののせいなのか、ここでもそれらの比重の大きさを決めることは難しいだろう。それは、新派が歌舞伎と新劇の中間的性格をもつことの証左であるようにもいわれるが、それならば、近代京劇もまた、伝統劇と近代劇の中間的なものとなっていったといえるのかどうか。
しかし、こういった演劇・芸能の近代の変化を支えるのが、社会の一部にかぎられる感性であることも、また一つの近代的あり方である。外国人には、しばしば、それが一般化されたものに見えてしまうのだろう。
(3)第三者の力

支配層による禁令や法令の出されたことが文書記録として残っている場合は、権力の作用は明らかであると思われがちである。だが、その法令がどこまで遵守されたかという問題になると、これまた、にわかには決め難い。木村氏の報告したチベット仏教に対するモンゴル政府の関わりや、中国の特に共産党政府の関与の仕方などに、社会一般の状況や感性がどう重なっていたか。権力による強圧で否応なく変化させられたのか、実際には、社会の深層的な支持があって変化したのか。いずれの実例も過去の歴史に事欠かない。伝統儀礼の形が厳守されても、それを破るのが子供であるときには寛容である事例が報告されていたが、これもまた宗教的意味によるのか、幼少児の社会的扱いによるのか、あるいは儀礼芸能自体のルーズさのせいなのか、これを正しく判断するには、木村氏のように長くその地にあって、対象だけでなく、社会慣習を知る必要があるだろう。通常の外国人研究者に困難な所以である。
逆に、支配層が奨励しても、広がらない場合もある。明治になって、女優と男優の共演が許されたが、新派のみならず新劇でも、男女共演はなかなか一般的とならなかった。その反面、劇場自由令はかなり早くに結果をもたらした。能楽も、芸態はそれほど変わらず、変わることがそれほど要請されもしなかったが、劇場(能楽堂)は、大きく変化した。昨年の第一回研究会で私が紹介した近代化理論では、内的要素より外的要素の方が早く容易に変化するという法則が出されたが、外的変化は、当然、内的変化もきたしているに違いない。そして男女共演というようなことは、実は外的なことで、問題はそれによってどのように演技が変わったかということ、また、どのようなドラマが作られるようになったかということが、内的な要素となる。新歌舞伎でも女優は混じらなかった。能や新派では、女性の上演が許容されているが、その事情は異なる。いずれにしても、男性のみであった演劇に女性が混じるようになるのは、明らかに西洋の影響であろうが、この近代西洋の感性を、日本人の演劇的感性が受け入れるには、なにが必要だったのか。これは、舞台表現だけでなく、中尾氏が問題にした「夢幻能」の呼び方にも関わることかもしれない。彼女が先回は言及していたストリンドベリの「夢幻劇」を私は「夢の劇」と言いかえているが、それは「夢幻」の語が必ずしも原作の「夢」の意味と同じではないからである。逍遙が歌舞伎を夢幻的といったときも、夢とは違う意味で使ったと思われるが、能の種類として、「複式夢幻能」の言い方が広まってしまうと、語の本来の意味から離れて、われわれの語感と齟齬をきたさなくなる。女優の登場も、舞台の西洋化も、同様に慣れてしまえば、それが本来のあり方だと思われて来る。断るまでもなく、これが支配層の権力行使を社会に受け入れさせる常套手段だが、社会的感性が受け入れたのか、受け入れたようにみせているのか、実際には、違和感が底に沈んでいるのか、それらを判然とさせるのは難しい。
(4)劇場の範囲

劇場とは必ずしも建物ではなく、劇を行う場ということだが、議論は舞台形態の方に集中して、見る側の場所については、あまり注意が向けられなかった。しかし、演劇は観客がいて初めて存在する以上、劇の場は観客の占める場があって劇場となる。それには客席だけでなく、劇が始まる前や休憩時に観客がいる場所も、当然含まれる。だが、ここに注目した研究は稀である。資料として出した西洋の舞台変遷の一覧図も、舞台・客席が中心で、その外には、あまり頓着していない。日本の劇場の図でも同様である。ブロードウェイの劇場では、客席から扉一枚ですぐに街路にでる構造も珍しくないが、そのくせ欧米では、ごく小さな劇場でも、休憩時に飲食するところ、少なくともバーは、必ずある。客の飲食する場、その時間、メニュー等は、西洋の近代劇場では変化が著しかったが、日本の劇場ではどうか。ここに西洋の影響はあったのであろうか。歌舞伎劇場では、茶屋制度がくずれていくとき、どのような場所が代替として一般的となったのか。
朝鮮王朝期には、屋内劇場は存在せず、二十世紀になって初めてそれができたという。とすれば、朝鮮・韓国での劇場形態の近代の変化は、他に類を見ない急激なものだったと言えよう。中国でも、京劇の場合、二十世紀には、いわば能舞台が歌舞伎舞台に変わったくらいの形態の変化があった。それは、歌舞伎が、「能舞台」での上演から始まって、長い歴史の中で、少しづつ舞台形態を変えていった流れを、あっという間に実現したということであろうか。
劇場でも、(1)で述べた変化をうながず三つの要因を見ることができるだろう。外的要素としての舞台形態の変化に対し、内的要素の変化、つまりそこでの俳優の動き、声の変化を知ることの重要性が指摘されたが、それを知るのは難しい。歌舞伎劇場の花道の形は、江戸期に江戸と上方で違っていたらしいが、現在も花道は適宜変化させることが許容されている。おかげで、一般の舞台でも歌舞伎を演じることは可能だが、能の場合も、橋掛かりの長さ、角度はある程度自由のようである。だから外国の劇場でも、舞台の上に能舞台の大きさを設定することで、基本的に演出を変えることなく上演できる。だが、花道や橋掛かりの形の違いは、出や入りの演出を変えさせるだろうが、そこでの演技には、違いをきたさないであろうか。
また、客席の形、性質の変化は、そこに入る客層の変化ももたらすだろう。また逆に、近年の日本人の体の変化は、客席の椅子の大きさを変えさせてきた。年配者の多い演劇分野では、若もの中心の劇場と同じような椅子というわけにはいかない。日常の家具の変化に伴って、劇場の椅子は、以前よりはるかによくなったが、客層は、客席の大きさ、形も左右する。演劇に不可欠とされる観客に関する研究は、どの意味でも重要でありながら、これまで、東西ともに、等閑視してきた。それは、歴史的な記録が少ないせいもあるが、やはり、実践者、研究者の側で、sceno-centrism(舞台中心性)が支配してきたからではないか。いま行われている舞台の映像化でも、客席の様子を十分に映しているものは稀である。

研究会開催実績:
第1回 2013年8月27日~28日 (於:高等研)
第2回 2014年2月27日~28日 (於:高等研)
話題提供者:1名
木村 理子 東京大学教養学部教養学科非常勤講師
その他の参加者:1名
木村 理子 東京大学教養学部教養学科非常勤講師
重田 みち 早稲田大学演劇博物館招へい研究員