①背景:
生体機能を明らかにし、そしてそれにつながる疾病治療などを開発するうえで、生体分子とその反応機構の解明が重要であることは論を待たない。実際に国家プロジェクトとしてゲノムプロジェクト、タンパク3000プロジェクトなどが行われ、原子レベルの蛋白質構造・物性・機能の実験的解析が非常に進展している。特に、遺伝子配列と蛋白質立体構造データなどのデータベースが急激な勢いで蓄積されつつある。しかし、生体分子の機能を分子論に基づいて理解するうえで、個々の生体分子の静的な構造自体は基本であっても、その微妙な安定性、そこから起こる揺らぎというダイナミクスが反応にとって必須であるという認識が高まっている。すなわち、生命現象を分子の言葉で理解するためには、まず素子内部での化学反応と反応ダイナミクスを解明する必要があるが、現在のシステムバイオロジーや構造生物学にはこのダイナミクスの観点が欠けている。例えば、ナノメートルサイズの生体分子は体温環境下の溶液中で機能しているため、絶えず強い熱揺らぎにさらされている。揺らぎが支配する生体分子へのエネルギーの入出力は確率的であり、しかし一方で確率入出力でありながら確定的な生命現象を創出する基礎は何か、あるいは生体分子がいかにして揺らぎを逃れ、あるいは逆に有効に利用して機能を発揮しているのかなどを明らかにすることは、生命分子科学の最も本質的な課題でありながら、これまで組織的、系統的に研究されてこなかった。
また、それから引き続いて起こる分子間相互作用を通したネットワーク構造は、直接に機能に関係するさらに重要なものである。これまではデータベースを基礎として、バイオインフォーマティックスに代表される遺伝子ネットワーク解析やシステム生物学などにより研究されてきたが、多くの場合、点と線で結ばれた関係図が作られていくだけであり、そこに個々のタンパク質や膜構造などの分子とそれらの間の相互作用という観点はなく、化学の視点を持ち込まれることは少なかった。
②必要性:
こうした背景のもと、分子科学の発展と共に個々の生体分子の化学反応ダイナミクスを調べるための種々の手法が開発され、従来の化学反応の知識を基にその生体分子反応機構が明らかにされつつある。すなわち、生命活動を分子レベルで理解するために、化学者と生命科学者が協力して生命反応を多角的に議論し、ダイナミクスと機能について理解を深める良い時期に来ているといえる。絶え間ない大きな熱揺らぎの中で機能を発揮し入出力レベルも熱エネルギー程度である生体分子が、こうした強い熱揺らぎの中でなぜ効率的に選択的に機能を発揮できるのか?そこに、静的な構造情報だけからではわからない生体機能の本質があるはずであるが、こうした研究は既存の分野では対応できず、今後の生命分子科学の重要な分野となるであろう。ゲノム科学の進展に端を発する網羅的な生命情報の集積により、生命分子の立体構造データベースが格段に充実してきている現在、生命分子の動的な側面にスポットライトをあてた研究プロジェクトが必要とされている。
更に、化学的な人工分子の集合体形成は、比較的単純なエネルギー表面を辿り最安定種へ収束してしまうのに対して、生命分子は自己組織化ダイナミクスによる生成種の変化や、準安定種への変換を起こすことで機能を発揮する。物質やエネルギーの出入りを伴う散逸構造や時間発展を実現している組織化された分子系の理解と創出はこれからの課題である。生命系の分子構造揺らぎを司る「曖昧で弱い相互作用」を利用したり、人工的に新たに作り出すには、これまでの化学結合論と異なる新しい設計原理を模索する必要がある。
③方針:
本研究では、こうした背景と必要性を鑑みて、2つの大きなターゲットを設ける。一つは、個々の生体分子の反応を理解するために、揺らぎがどのように関わっているのか、その揺らぎというダイナミクスをどのように利用して機能を作り出しているのかを明らかにするための研究会を開催し、異なった分野の研究者が共通の言葉で生体分子反応についての理解を深める。こうした点を理解したうえで、例えば揺らぎを利用した治療法を提案、実証することを議論する。
更に、そうした個々の生命分子の反応に続く、様々な時空間スケールにおける生命分子の集合離散プロセスを追跡するとともに、各構成要素の原子レベルの内部運動の変化を対応付ける科学の方法論を構築する方策について議論し、発展させることを目的とする。例えば磁気共鳴法や時間分解レーザー分光法、溶液散乱などの実験科学的アプローチと、複雑系を対象とした量子・統計力学を駆使した理論的アプローチを融合することにより、生命分子の動的秩序形成の原子描像に基づいてエナジェティクスを理解することを試みる。生命分子の作るネットワークに対してこれらの方法論を適用した研究を通して、生命分子集団の動的秩序形成を明らかにする。可能であるならば、以上の研究を通じて得られる知見を、生命分子の動的秩序形成の本質的特徴を有した人工システムの構築へと展開することも視野に入れる。
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