

かつて数年間、歴史哲学の再興をめざすテーマでフェローとして研究をさせていただいて以来、本研究所の活動には関心をもってまいりました。来るべき時代のありようを見すえ、学の新領域開拓の萌芽の発見につとめたいという研究所の趣旨には、共鳴することが多かったからですが、今回、副所長就任にあたって、あらためてその思いを強くしています。
「世界はひとつ」といえば、手垢のつきすぎた常套句となっていますが、それが何を意味するかについて、あまり真剣には考慮しないのが、普通のこととなっています。しかし、コロンブスやバスコ・ダ・ガマの航海以来、西ヨーロッパを中核として拡大・成長を遂げてきた私たちの「近代世界」は、いまや地球全体を覆ってしまい、たったひとつの「世界」が「地球」と同義となりました。 この「近代世界」は、「成長」・「拡大」・「進歩」をほとんど病といえるほど至上命題としており、私はこれを、「成長パラノイア」とよんでいます。しかし、いまでは、この「地球」=「世界」は、資源・環境問題という壁に突きあたって、成長の限界を経験しています。これまで経験された同種の危機と同じように、この限界も、いわば「近代世界」に特有の「宗教」である「科学技術」によって解決されるのでしょうか。
たとえば、16世紀に、木炭による製鉄業が展開して森林を食い尽くし、生態学的な危機を経験したイギリスが、18世紀になってコークスによる製鉄の技術を開発してこれを克服したことは、「産業革命」として知られています。しかし、その石炭による製鉄業が、環境破壊をもたらしたことも事実です。当面の問題を解決しようとする技術革新は、別の問題を引き起こしやすいというのが、人類の歴史的経験です。
ここには、人類にとって都合のよい財貨やサービスの産出量だけを測定し、不都合な「反生産物」は無視してきた、「経済学」という「科学」の今日に至る根本問題もあります。「生産」の「統計」はとられますが、公害や環境破壊や、原材料などの生産にあたる世界各地の労働者の窮迫など、「反生産」に関する統計はとられませんでした。
ところで、われわれの属する「近代世界」とは違うシステムは、「成長パラノイア」から自由であったと思われます。「開国」という名の「近代世界」への組み込みを経験するまえ、江戸時代の日本人は、いまほど「成長」にこだわっていたとは思えません。そこには、人間の別の生きざま、別の価値観があったと思います。
こうした問題を、広く、長期的に検討するには、歴史学の手法が不可欠ですが、伝統的な歴史学は、このような要請にまったく応えることができません。少ない紙幅では、意を尽くしませんが、世界システム論をベースとして、このような課題に応えられる新しい学の領域がつくれれば、というのが、私の希望です。
高等研ニュースレター67号
(2009年8月発行より)
