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第43回 けいはんな「ゲーテの会」

開催概要

日本の未来を拓くよすが(拠)を求めて-日本の近代化を導いた人々の思想と行動、その光と影を追う-日本社会の古層から日本的なるものを発掘した人物

43

思想・文学

『走れメロス』と『坊っちゃん』における友情

【講演者】
田島 正樹元千葉大学文学部教授
【講演者経歴】
1950 年大阪市に生まれる。東京大学教養学科フランス科卒業、東京大学大学院博士課程(哲学専攻)修了、元千葉大学文学部教授。哲学者。
著書に、『ニーチェの遠近法』(青弓社 1996)、『哲学史のよみ方』(ちくま新書 1998)、『魂の美と幸い』(春秋社 1998)、『スピノザという暗号』(青弓社 2001)、『読む哲学事典』(講談社現代新書 2006)、『神学・政治論』(勁草書房 2009)、『正義の哲学』(河出書房新社 2011)、『古代ギリシアの精神』(講談社選書メチエ 2013)などがある。
【講演要旨】
太宰治の『走れメロス』は、理想の友情を描いた作品として有名です。でも少し変なところもあります。身代わりになったメロスの友人セリヌンティウスは、たった一度メロスが帰ってこないかもしれないと疑ったと言います。メロスをよく知る親友なら、メロスがおよそどのような場面でどのようなことをするかはわかっていたはずです。それなら帰ってこなかったとしても、それなりのやむを得ぬ理由があったのだろうと思うのが普通でしょう?
他方、夏目漱石の『坊っちゃん』も、見方によっては友情を描いたものと言うことができます。同僚のうらなり君が、赤シャツたちから不当な扱いを受けたのに憤慨して、連帯して制裁を加える話だからです。
両作品の主人公は、無鉄砲な、どちらかといえばやや無分別な若者という点で、似た所があります。友情を描くには、思索的タイプよりは、行動的タイプの方がぴったりということでしょう。この両作品を友情という点で比較対照することで、友情の本質とは何か、『走れメロス』において隠蔽されているものは何なのかについて解明してみたいと思います。
開催日時
2017年1月11日(水)18:00~20:30
開催場所
公益財団法人 国際高等研究所
参加費
2,000円(交流・懇談会費用を含む)
定員
40名(申し込みが定員を超えた場合は抽選)
締切
2017年1月9日(月)必着

当日の様子

田島正樹講師による講演に続き、友情に関する様々な視点から参加者との活発な質疑応答がなされた。主な内容は下記のとおり。
友情がテーマであるが、友情と言う概念はいつごろからのものか。まずは「私」、「僕」の概念がないと、友情という概念にはつながらないのではないかとの質問について、他者から独立した立場である自我がないと友情は芽生えない。日本では平安時代に「武士階級」が勃興してからではないか。日常においてその地に命を懸けて(死を意識して)一所懸命に生きる武士の精神性が背景として自我が芽生えたのではないかと考える。お互いに人格を尊重し合い、相手に対する尊敬の気持ちが友情に近い感情ではないかと所感が述べられた。
さらに、一般的に日本人の文章では主語が省略されることが多いが、「走れメロス」では主語が明確に示されており、日本文としては不自然のように思われるがとの指摘について、日本文では、主語がなくとも明確な自我が成立しないという訳ではないので、「走れメロス」で主語が示されているのは、特に自己主張あるいは自我の姿が表されているように感じると感想が示された。
「走れメロス」に感じる激しい心情に関連して、友情とホモセクシャルの人間関係については、ギリシャ時代には戦士の友情がホモセクシャルの起源と言われているが、本質は別ものと考える。ホモセクシャルは異性的恋愛関係よりも一層孤独で懐疑的、脆く壊れやすいもので、恒常的に維持することが難しい関係と考えられ、その対極的な友情が戦士的友情という信頼関係と言えるのではないか。
友情と恥の関係については、両者には深い関係がある。恥をかかないということはパブリックな価値。武士は恥をかかず名誉を守るというパブリックなところに生きる。友情は恥をかかず相手の名誉を重んじるところに成立するもので、愛情関係とは異なる。名誉心に裏付けられた人間関係が友情である。その延長に政治的な関係に繋がるものであると考える。
友情の本質とは何か。友情の定義について質問がおよび、友情を捉えるには政治的関心が不可欠であるという側面を強調したい。友情とは、ある二者関係と捉えられがちではあるが、そうではなく、その二人を取り巻く雰囲気、二人の関係を見ている回りの同属集団があり、お互いに尊重し合う人々によって見られている状況が背景にある。友情にとって重要なのはその他大勢ではない第三者の存在が必要である。友情を語れるのは貴族的雰囲気があってのことであり、友情とは、名誉を尊重する人たちから見つめられる状況があって初めて文化として成立するものと考える。なお、友情の定義については、友情に係るある種の基本パターンが存在するのではなく、色々なパターンを通じて本質を捉えられるものであり、例えば「美」や「偉大さ」と同様に定義からアプローチできるものではない。また、友情は、尊敬する、敬服する、感服する対象から芽生えるもので、敵同士であっても偉大さを認め合って友情が成り立つことがある。高潔な人間は高潔な人間を理解できるが、矮小な人間は高潔な人間を理解することはできないため、矮小な人間では友情は成り立たない。友情というのは相手を区別するものである。
最後に「走れメロス」の政治的な側面について、政治性が抑圧され隠ぺいされているとの講師の指摘について、政治性があるという前提で考えると、仮にメロスが功利的な人間ならば見通しを付けて行動することになる。政治性の隠ぺいの先にはメロスの合理性を考え得る。西洋的合理的政治性という解釈では、友情が極めて重要な要素となる。「走れメロス」は、フリードリヒ・フォン・シラー(Friedrich von Schiller)の詩をもとに創作されだが、メロスの政治性は、西洋的なものを東洋的なものに置き換えて、西洋とは区別するように日本的政治をテーマにしていると考えると、講師の言う(西洋的)友情とは区別されるような友情をテーマとして日本の政治の支えとなる作品にしたと理解できるのではないかとの問題提起がなされた。
これに対して、目的合理的にメロスが権謀術数な人間であって、政治的目的を達成するためには、友情などどうなっても構わないというような政治意思を持った人間であるならば、それはそれなりの話として成り立つが、一方、暴君の考え方を変えさせるための友情劇的な行動という読み方は、成り立たないのではないか。暴君は、そのような友情劇に心動かされるようなセンチメンタルな感受性を持ち合わせているとは考えられない。このような話に期待するのは、元々政治的センスがない者と考えるがとの発言があり、質疑応答を終えた。
(文責:国際高等研究所)

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