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第83回 けいはんな「ゲーテの会」

開催概要

「新しい文明」の萌芽を探る日本と世界の歴史の転換点で、転轍機を動かした「先覚者」の事跡をたどる 

83

政治・経済

shouldの世界とhow to の世界を問う。統治理論の探求者『ニッコロ・マキァヴェッリ』

【講演者】
澤井 繁男作家、元 関西大学文学部教授
【講演者経歴】
1954年札幌市生。道立札幌南高校から東京外国語大学伊語科を経て、京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。東外大論文博士(学術・1999年)。4半世紀大手予備学校で英語の教鞭を執って、2004年関西大学文学部教授に就任(2019年3月末日を以て定年退職)。目下、非常勤講師。放送大学(大阪)の非常勤講師も務める。専門はイタリアルネサンス文学・文化論。小説家としても商業誌で活躍。マキァヴェッリ関連書には、『マキァヴェッリ、イタリアを憂う』(講談社)、バウズマ著(拙訳)『ルネサンスの秋』(みすず書房)、3部作『若きマキァヴェッリ』(東京新聞社)、『外務官僚マキァヴェッリ』(未知谷)、『助教 横田弘道・ダヴィデ像』(水声社)。その他のイタリアルネサンス関連書、創作集他多数。


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【講演要旨】
タイトルに2つの英単語を置いたのは、宗教(倫理の世界)と方途(道徳の世界)をわかりやすく説くためで、その個所を『君主論』から引用して解説。以後の引用は原典イタリア語とペンギン版英訳、それに参考図書で挙げている翻訳書の3種類を用いて熟読してゆく。また、著名な「目的のためには手段を選ばず」の信憑性を『君主論』のなかで確認する。さらにマキァヴェッリが理想とした「市民型の君主制」について歴史的観点から考えてみる。最後に、古典古代(異教の世界)崇拝者だったマキァヴェッリにとって宗教とは何であったかを問うとともに、マキァヴェッリとは正反対の立ち位置で社会を見つめたジョヴァンニ・ボテロにも言及できれば、と願っている。
 ニッコロ・マキァヴェッリ:1469~1528年
 ジョヴァンニ・ボテロ:1544~1617年
開催日時
2020年11月5日(木)
開催場所
公益財団法人国際高等研究所
住所
〒619-0225 京都府木津川市木津川台9丁目3番地
参加費
2,000円(お釣りの無いようご協力ください)
定員
25名(先着順・定員になり次第締め切り)
締切
2020年11月4日(水)必着

当日の様子

2020(令和2)年11月5日(木)18時から国際高等研究所において、第83回満月の夜開くけいはんな哲学カフェ「ゲーテの会」が開催されました。テーマは、『shouldの世界とhow toの世界を問う。統治理論の探究者「ニッコロ・マキァヴェッリ」』。講師は澤井繁男先生(作家、元関西大学文学部教授)。

マキァヴェッリの主著『君主論』(1513年)は、彼がフィレンツェ共和国から追放され山荘で過ごした閑暇の中で執筆されたもので、メディチ家へ奉職を願い出た、いわゆる求職の書である。そこで彼は、君主の心得るべきは、聖なるもの(宗教)と俗なるもの(政治)の分離、いわゆる「政教分離」であるとして、「倫理(should:宗教)」と「道徳(how to:方途)」の世界の分離の下での統治を唱え、前者の後者への影響の排除を主張することによって近代的政治思想の祖となった。また、社会像として、共和主義者らしく「市民型の君主国」を提唱した。

マキァヴェッリを象徴する言葉として、広く喧伝されている言葉に「目的のためには手段を選ばず」がある。だが、これは元「目的は手段を正当化するであろう」と将来の評価に関わって発せられた言葉であり、しかもそこには前提があった。「建設的なことのためには・・・」「公のためには・・・」である。この前提を欠き、かつ、現在形で使われては意味をなさない。曲解も甚だしい。的確な日本語としては「(国家的統一などの大きな)目的を遂げるためには色々な手段が考えられる」などであろうか。翻訳文化の危うさがここにある。

ところで、彼は、ルネサンス末期である「初期近代」(アーリー・モダン)に政治学者として活躍したボテロなどともに「イタリアルネサンス」を代表する人物である。ギリシア・ローマ時代を憧憬する人文主義者でもあった。ただ、経済力を国家統治の基本に置くボテロとは異なり、軍事力をその基本に置く政治思想の持ち主であり、時代的制約は免れない。

翻って、『君主論』をリーダーシップ論として捉えると、その立論は、ギリシア・ローマ時代を憧憬する人文主義者らしく、古代ローマの英雄カエサル(シーザー)に連なる人物像を範とし、キリストとは異なる質の人物像とされている。それは、「宗教改革」の雄ルターが、その改革においてヘレニズムの思潮を洗い流し、ヘブライズムへの回帰、キリストの言葉『聖書』を無上のものとすることを目指したのと対照的である。

そもそも『聖書』においては、人間は自然を管理し自然を支配するものとして神が創造したとされ、したがってそこでは自然の量的側面が着目され、質的側面は等閑視される。〝自然は数学の言葉で書かれている″とするガリレオ・ガリレイこそ近代科学の礎を築いた人物である。この近代科学の発展、いわゆる科学革命はこうしたキリスト教あってのものであり、自然の質的側面は当然顧みられない。だが、今、地球環境問題をはじめとする人類的画題が提起される中で、自然の質が問われることとなった。「イタリアルネサンス」におけるギリシア・ローマ文化、ヘレニズムの再発見が希求される所以である。
 新たな文明の縁に連なる興味深い質疑応答が続きました。(文責:国際高等研究所)

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