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第44回 けいはんな「ゲーテの会」

開催概要

日本の未来を拓くよすが(拠)を求めて-日本の近代化を導いた人々の思想と行動、その光と影を追う-世界の中の日本。科学・文化の諸相に彼我の風 土の違いを発見した人物

44

思想・文学

「明治の精神」としての内村鑑三

【講演者】
新保 祐司都留文科大学副学長・教授
【講演者経歴】
昭和28年、仙台市に生まれる。昭和52年、東京大学文学部仏文科を卒業後、出光興産に入社。平成2年、『内村鑑三』(構想社)を上梓、新世代の文芸批評家として注目を集める。平成8年、都留文科大学助教授に就任。平成10年、教授に昇任。平成26年より、副学長・教授。平成17年、『信時潔』(構想社)を上梓、「海ゆかば」の作曲家・信時潔を復権させた。平成19年、フジサンケイグループ正論新風賞を受賞。
著書に、『島木健作―義に飢ゑ渇く者』(リブロポート)『日本思想史骨』『国のさゝやき』『鈴二つ』(以上 構想社)『フリードリヒ 崇高のアリア』(角川学芸出版)『異形の明治』(藤原書店)『シベリウスと宣長』『ハリネズミの耳―音楽随想』(以上、港の人)など多数。編著に『「海ゆかば」の昭和』(イプシロン出版企画)などがある。近著は『「海道東征」への道』(藤原書店)『散文詩集 鬼火』(港の人)。
【講演要旨】
「明治の精神」の典型的存在は、近代日本の代表的基督者、内村鑑三に他ならない。徳富蘇峰は、「内村さんのような人が明治に産出したことは明治の光だと思う。」と90歳のときに語った。内村は、『代表的日本人』の「独逸語版跋」の中で「此書は、現在の余を示すものではない、これは現在基督信徒たる余自身の接木せられてゐる台木の幹を示すものである。」と書いた。この「台木」とは、単に歴史的教養を意味しているのではない。人格的なものにまで形成されたエトスとパトスの蓄積である。そして、その蓄積を回想し、自覚している精神である。
「明治の精神」は、「台木」を持っているだけでは生まれない。何ものかが、「接木」されなくてはならないのである。内村鑑三の場合は、いうまでもなく「基督教」が接木されたのであり、福澤諭吉の場合は、「文明」が、岡倉天心の場合は、「フェノロサの眼」が、中江兆民の場合は、ルソーが、夏目漱石の場合は、英文学が、といった具合に、それぞれの「台木」の個性と宿命に応じて様々なものを「接木」したのである。
「明治の精神」が生き生きとしていたのは、大体、日露戦争の勝利までであろう。それ以降、この劇的な精神は次第に薄れていく。自然主義、大正デモクラシー、マルクス主義、戦時下の日本主義と移り変わり、やがて敗戦を迎えた。そして、戦後70余年とは、精神的エネルギーを鍛えることなく、今日の空虚な日本、三島由紀夫のいわゆる「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の」日本に堕していくだけの時間であった。
ますます深刻化する危機の中にある日本を立ち直らせるためには、「明治の精神」の代表的存在である内村鑑三を深く理解し、そこから精神的エネルギーを汲みとらなければならない。
開催日時
2017年2月10日(金)18:00~20:30
開催場所
公益財団法人国際高等研究所
参加費
2,000円(交流・懇談会費用を含む)
定員
40名(申し込みが定員を超えた場合は抽選)
締切
2017年2月8日(水)必着

当日の様子

新保裕司講師による講演に続き、「明治の精神」としての内村鑑三について及び明治時代を背景とする様々な視点から参加者との活発な質疑応答がなされた。主な内容は下記のとおり。

内村鑑三の最期の言葉、I for Japan , Japan for the world、the world for Christ, and all for Godの中で、Japan for the worldまでは共感するが、the world for Christは昔のキリスト教なのだろうと思う。我々は何を接ぎ木としての新しい思想にするのかが重要と考える。そこで私としては、the world for natureか、あるいは最後は all for planet ということになるのではないかと思うが、先生としては、Christ あるいは Godをどのような言葉に置き換えられるのが適切か、このままで良いとお考えかを聞きたいとの質問に対して、今日的にはChristや God ではなくて、nature やplanetではないかとのご意見であるが、難しい質問である。これについての回答は保留として、日本人とキリスト教について補足説明がなされた。

続いて参加者から、明治の精神という場合、日本人の中に、徳川時代・幕末から受け継がれてきた儒教的受け皿、儒教倫理があったのではないかとの指摘があり、下記のとおり同意する説明がなされた。

儒教倫理といっても日本的倫理。江戸時代の儒教は中国の儒教ではなく、日本化したものだと考える。司馬遼太郎は、江戸時代は神なきプロテスタンチズムだったと言っている。江戸時代は武士から職人に至るまで、清潔感を持つ、まじめに仕事をする、約束は守る、時間厳守の精神というものがあった。

明治の精神に影響を与えた「西国立志篇」という訳本がある。最高の漢学者であった中村正直(1866年江戸幕府留学生取締役として英国に留学)が、イギリス人作家サミュエル・スマイルズ(Samuel Smiles、1812年- 1904年)の著書「Self Help」を、当時「学問ノススメ」と並び2大ベストセラーとなった「西国立志篇」として邦訳した。Self Helpの冒頭には、「天は自ら助けるものを助く。」との格言が記されている。

カトリックでは、「天は全ての人を助ける。」であるが、プロテスタントは「努力する人だけを助ける。」となる。プロテスタントは、神は仕事をする人が好きだともいう。ドイツではマルティン・ルター(Martin Luther、1483年- 1546年)が16世紀に宗教改革を進めた。その後、「仕事は神から与えられて額に汗を流さなければならない。人間には天職がある。神から与えられた仕事をやることで救われる。」と説く宗教改革の精神に基づいて近代が始まったと言える。司馬遼太郎が言ったのは、日本は神なきプロテスタンチズムで気風がすごくプロテスタントに似ており、カトリックとは違うと言うことである。

ところが今の宗教は、自分の小さな痛みを直すための宗教である。従って今の宗教者と明治のクリスチャンと言われる宗教者とは決定的に違う。自分だけじゃない世界があるわけである。日本人が持つ精神性があってこそ、キリスト教を受け入れられたのではないかと考える。侍クリスチャンという存在は、人間の精神の劇としては非常に興味深いもので、人間の精神がこういう風に変わるという劇的なドラマが、日本で起きていたということだと考える。

最後に参加者から、日本の精神がいかに重要であったかということはよく理解できるが、歌に込められる精神というものもあるように思う。具体的には、若い人でも作曲家 信時 潔(のぶとき きよし、1887年- 1965年)の作品は知っていると思うが、それは何かと言うと、講話の中で大友家持に触れられた。彼は三十六歌仙の一人で万葉集の編纂に関わる歌人であるが、万葉集に残る彼の長歌から採られた歌詞に「海行かば」(*注参照)があるがとの話題提供に対して、下記のとおり補足説明がなされた。

*注)「海行かば」の歌詞は、『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」(『国歌大観』番号4094番。『新編国歌大観』番号4119番。大伴家持作)の長歌から採られている。作曲された歌詞の部分は、「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第13詔)の引用部分にほぼ相当する。この詞に1880年東儀季芳が曲を付けたものが軍艦行進曲であり、一方大日本帝国政府が国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲として、NHKの嘱託を受けて1937年に作曲した国民唱歌の作曲が信時 潔である。信時の自筆譜では「海ゆかば」。
ご指摘のとおりである。信時 清という作曲家について、実は皆さんでも(彼の作品は)ご存知の筈で、校歌を多く作曲している。彼の作曲はおそらく900曲くらいにはなるのではないか。特に校歌の中でも最高傑作と言われるのが慶應義塾の塾歌である。これは昭和16年に富田正文が作詞して、信時が曲を付けたものである。昔のナンバースクールの校歌はだいたい信時の作曲が多い。
しかしながら、若い人にとって山田耕筰は知っているが、この信時 清を知らないのである。この二人は戦前の作曲家の2大巨頭であったが、どちらかというと戦前の価値観では官位に優位性があったので、東京音楽大学(今の東京芸術大学)の教師だった信時 清の方が、山田耕筰より格が上であった。戦後になると評価が一変して、山田耕筰は残ったが信時 清は忘れられた存在になった。これが戦後の問題である。文学の世界でも、坂口安吾と太宰治では太宰治は残ったように、戦後には価値観の大きな転換があった。しかし、本当にこのような状況で良いのか。それを元の価値観に戻さなくてはいけないのではないかと考える。

山田耕筰について露骨に言うと、軍歌を通じて戦争教育に最も熱心であった人物であった。そのため、戦後に山田耕筰は一旦排斥されるが、その後には「赤とんぼ」や「この道」という童謡の作曲家に転身して戦後の世の中に自分を合わせていった。一方の、信時 清は幸か不幸か、「海ゆかば」や「海道東征」のような曲を作ったことで、性格的にも古武士的な人であったから、一切妥協することはなかった。結局「海ゆかば」はタブー化されて放送禁止となり、信時 清も忘れられた。このような事情を踏まえ、私は信時 清を評価する。
私は、批評というのは基本的に義憤から始めなければいけないと思っている。世間の人が信時 潔を知らないというのは自然なことではなくて、かなり意図的に知られていない状況を生んだと考えるため、そういうことで無視されている人や埋められている人、意図的に評価を貶められている人に対して義憤を感じている。そういう歪んだ評価というのは、山田耕筰と信時 清を含めて戦後アメリカのGHQの指導によっていると思う。極論すると歴史を改ざんしており、問題である。こういうことがあったということぐらいはきちっと復元した上で、評価を加えることが最低限必要だと考える。

以上の発言を以って質疑応答を終えた。

(文責:国際高等研究所)

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